「外から見ていますよ」というスタンス
「パネリストとしてどんな話をしましょうか?」というのはもちろん、事務方と事前に話をしていました。それで、私は【一般社会につながるところの記者(取材者)が、GP採択校をどう見ているか】をお話することにしました。「外からの人として、厳しい意見もぜひ」と事務方にいわれましたし、教育GPの聴講者の皆さんは、日刊工業新聞なんて知らない人が多いだろうし。企業人も含め、いずれも私以外はGPの評価や採択に実際にかかわっている他のパネリストと、同じ土俵で話すのは無理だと思ったのです。
10分間のコメントで、GPの良さを話したうえで、「でもここがちょっと。採択大学の事例を見ていて首をひねる部分」というのを私は挙げました。そうしたら、会場との質疑応答で、その部分についての質問がきました。それが私、質問の意味が分からなかったんですよ…。GP採択事例の傾向がどうなっているか、まで分かっていないと通じない用語使いをされたからです。たまたま、私と同じ名字の別の先生がいらしたので、質問者が「山本先生の発言で」というも、これは「もうお一人の山本先生に質問しているんだな、私が答えるべきものではないな」と思ってしまったくらい、分からなかった。私に聞いているんだと知って、慌てて「こういう意味でしょうか?」と聞き返すも、変な答えになってしまった…。
それでも質問者は頷きながら私の答えを聞いてくれたから、「私の批判に怒って意地悪で質問した」というわけではなさそうで。それに、他のパネリストが引き継いで答えてくれたのが助かりました。後で、「GPにそう詳しくないのに、刺激的なことを口にして、墓穴を掘っちゃった感じだな」と思いました。ただ、関係者ばかりの世界において、そこでの言い回しが分からなかったこと自体は、仕方がない。主催者もそういう関係者外をパネリストを、と意識して選んでくれたのだから、とも考えました。
新聞記者は基本的に、「私は外から、皆さん(取材先)を見ていますよ。一般社会(弊紙の場合は産業社会、という感じですが)の視点で応援し、批判もしますよ」というスタンスでいなくてはいけないですよね。常に、外の人。たとえ取材先と、とても仲良くなったとしても。あるやや批判的な記事で、取材相手が予想よりずっ〜と激しく怒ってきて、びっくりしたことがあるのですが、先輩は「相手は山本さんを、自分たちの仲間だと思っていたんでしょう」と説明してくれました。逆に私が親しい取材先にうっかり「〜の件を明日付一面で掲載します」とメールしてしまい、「その件、掲載はまだダメです」と【待った】がかかったこともあります。他マスコミに出さず、うち単独という約束のうえで掲載を待つことに同意した(これは、よくあることです)けれど、緊張感が足りなかったと反省しました。
「山本さんだから、オフレコ話をいっぱいしちゃいましたよ」と取材先に言われるのは、もちろんうれしいです。信頼されているんだなと思うから。だからこそちゃんと、「ここまでは書いていいこと、これは(相手が言わなかったとしても)書いては具合が悪いこと」と判断して、適切な記事を書くように心がけています。だけど、完全に取材先の仲間になってしまってはいけない。ある大先輩は「我々は壁の上を歩いている。壁の下の両方を見ているけれど、どちらかに(あるテーマについての賛成派、反対派のどちらにも)落ちては行けない」っていってましたっけ。常に【外から見ている人】。それが新聞記者の本質なのかもしれません。
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