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2011年5月

2011年5月26日 (木)

取材決断の当落線

大震災で年度末・年度初めに予定されていた発表が、5月にずれ込んでいるようで、リリースや会見がたくさんあって忙しい。T1大学は記者懇ぽい会見が今月2回。T2大学のA研究所も、会見が2週間の間に2回あって。A研究所の先生は「新年度スタートと思っていたのですが、震災で間に合わなくなり、秋スタートに変更しまして。パンフレットも刷り直したのですよ」といっていましたね。忙しいと、「書いても(取材して記事にしても)いいけど、書かなくても(記事にしなくても)いい」という決断の当落線上にある案件の扱いに迷いますねえ。

一例は先日の省内取材。委員会の報告書がまとまったとリリースされたのですが、通常は付いている要旨に相当する一枚紙がない。「きっと記事にしてもらえないよ」と思って要旨をつくる手間を省いたのかなあ? 私は皆が書かない案件に食指が動くタイプなので、気になりますね。けれども忙しさにまぎれて日数が過ぎてしまう。ようやく、えいや、と思って取材お願いの電話をしたところ、担当室長が不在。「やっぱボツにしちゃうかも」と思うも、応対に出た方が「失礼ですがお名前は。室長に申し伝えます」という。に、逃げられない…。1時間後、室長から電話が来て、「今日ですと国会の関係でこの後、説明があり…、夜遅い時間なら可能ですが。明日なら11時から11時半の間が対応できます」という。可能な時間が30分のピンポイント、厳しい提案ではあるけれど、取材相手がこれだけ譲ってくれるとねえ、人情といいますか。「ボツ」じゃ悪いなあ、と判断するのです。官僚は公職として取材に応じようという基本姿勢を持っているわけですが、忙しい中でよく時間をつくってくれるものですね。というか超忙しいから、取材の予定でさらに、少しくらいより忙しくなっても、苦にならないのかも~(笑)。

もう一つの例は、行ったことのないB大学での会見案内です。科学技術の学部は持っていないので「落とす」のでもよいけれど、人材育成という切り口なら「当たり」にしてもいいかな。決め手となったのは「三軒茶屋駅なんて、行ったことな~い」ということ。都心から近いし。式典と会見の一緒型(主催者にとってラクチンなタイプ)、でも全部で1時間なら許せる(式典に長々と付き合わされるのは辛い)。直前まで迷うも、別の原稿執筆のメドがついたことから、「当たり」判断とし、出かけました。B大学の学生ってこんな感じ(外見しか分かりませんが)?、昔は厳しい大学だったとか。付属学校の子どもたちの夏の制服もまぶしい。世田谷区というと都心の区なので、ハイソでよそよそしい感じもあるかと思ったけれど、この辺はそうではないのね。そして帰りに確認したのは、駅近くの、「キャロットタワー」。名前だけは聞いていた。確かに「にんじん色」かも。あ、名前の由来ってこれかどうかもよく知らない。…じゃ、次回は学長インタビューを夕方に設定して、帰りに探索、かな。新しい大学を訪問するきっかけって、こんな感じ??

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2011年5月18日 (水)

博士とは何か

博士研究を経験してよかった、と今回つくづく思うのは、「研究とは何か」「博士(博士号取得者)とは何か」をそれ以前に比べて格段に、深く実感することができたことです。私は「博士とは、何もない、だれもいないところで新たなものを打ち出し、それを実証し、社会に賛同者を増やしていく。そのことを学術的な研究手法によってできると、学位によって証明された人」と定義できるのではないか、と考えています。

 「社会人の学術的な研究」では、以下のような過程が必要だと、自分でまとめてみました。

 1 自信の経験と勘などによって、「ほかのだれもがいっていない(いなさそう)」で、「社会にとってとても大事なこと」を思いつく。

2 これまで社会で(学術の専門論文も含めて)それについて、どう研究され、議論されてきたか、自分の〔思いつき〕の位置づけや重要度を把握する。

3 考えて、さまざまな人と議論して、さらに深く考える。

4 オリジナリティがあり、かつその(学術)分野に価値のあることを自分の「仮説」として立てる。

5 調査研究や実験研究を行う。

6 科学的な手法にのっとって分析(例えばアンケートなら統計学的分析を活用)し、「仮説」が正しいことを「実証」する。

7 専門学術雑誌に投稿し、査読(ほかの実績ある専門家が、論文として不足の点を指摘する)と修正を繰り返し、よその専門家も納得しうる論文として完成させる。

8 その研究成果を論文として社会発信すると同時に、自ら実社会での実践に生かす。

こんな具合でしょうか。専門論文に相当する研究はこのような形で進みます。さらに博士の学位は、このような論文を3報(つまり、新しい仮説の実証を3つ)程度したうえで、全体をまとめた論(博士論文)に対して、評価がなされるのです。

社会人はいい仕事をしていると、職業を通じた社会的な活動の中から、「これは、これまでにない新しい考えではないか」と思いつくチャンスに出会うことが時々、あります。これが1ですね。でも通常は、それを科学的に示す研究という手法を知らないので、それを学術における知の体系に結びつけていくことは難しい。2の文献調査は慣れていない人(その分野の学術を知らない人)にとってすさまじく面倒くさい。けど学術では絶対に必要とされる部分です。6の科学分析手法も、指導教員が社会科学系ではなかった私の場合、いくつもの書籍と非常勤講師の統計の先生が頼りで、苦しかったですよ~。

7の論文査読は、博士学生に対する教育効果という意味が、こんなにあるのだとは、体験して初めて知りました。投稿する段階で指導教員のOKは受けているのだけど、査読者であるよその専門家(多くは大学教員)には、「調査結果を並べただけで、何が仮説で何を証明したいのかわからない」「先行文献の調査が足りない」「~という見方はあなたの決めつけ、別の論文で論拠を示しなさい」などと指摘される。それに対して、追加のデータや論文を持ってきて、相手を納得させる…のです。新しい考えなので関係者からの反発は当然で、それを乗り越える知力を、このようにして鍛えるのです。

私は4つの論文を5学会に投稿するという経験を積みました。指導教員が得意とする学会は2つだけ。後は私の公私交えた人的ネットワークを駆使して、「この学会で私の論文は受け入れられるだろうか?」と慎重かつ大胆に考えて試みたのです。そのため、学会・分野による甘さ辛さの差や、それらを乗り越えた学術の共通点も実感することができたのです。

一方、学部から同じ研究室でストレートに進学してきた若い学生の場合は…。「修士」は「学部」の延長。「博士」は「修士」の延長ではない、というのは皆、感じていると思います。でも、そうはいっても研究室には参考になる本や学術雑誌や先輩の論文がごろごろしていて、2の先行論文の調査や、3の議論はやりやすい。6の分析や、7の査読の雑誌の状況なども、多くの情報を得られます。ただし! 「経験から生まれる」1のオリジナリティは皆無です。その分、2の文献で、とにかく過去はどうだったのかを調べまくることが重要になるし、その中で新しいものとなると、どうしても「狭くて深い」研究になってしまいます。社会人でも製造業の研究者が、専門の研究で博士号をとる場合はうーん、この中間くらいかもしれませんネ。

このような経験を経て今、取材では博士レベルの「人材育成」についてのテーマに興味が高まっているところです。例えば、「米国の博士は社会に受け入れられて広く活躍していると聞くのに、なぜ日本の博士は社会ニーズとこんなに開きがあるといわれるのか」にとても興味があります。実はこれ、本当は「こっそり取材して、読者をうならせるような記事を書こう」と当初は思っていたのですが、米国出張に頻繁にいけるわけでもなし、いいきっかけが見つからない。よってアイデアを公開して、さまざまな人の意見を受けてみようと考えを変えたのです。皆と議論する中から、今は予想していないような考え方が私に生まれ、独自の記事につながるかもしれない、という期待です。秘匿と公開の両方を使い分けつつ、「独自(かもしれない)視点を発展させる」手法は、博士研究で身につけた、というのはおおげさだけど、やはりその一つでしょう。米国の博士はビジネスを含めた広い分野で、こういった新規のアイデアを発展させられるから、社会に評価されているのではないかなあ。皆様、ぜひ議論のお声がけをしてくださいね!

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2011年5月 2日 (月)

風邪を引いたはずが…

先週、親しい女性教授の取材におうかがいした時のこと。教授「今日は花粉がひどいわねえ」、私「花粉って、スギはもうほとんど終わりなのではないのですか」、教授「なんだかブタクサと両方なのかもしれないの」、私「私も最近、調子悪いのですよ」という挨拶の後、取材となりました。4月って、風邪を引く危険にさらされる注意月間ですよね。暖かくなってうれしくて、薄着になったところで風邪を引くというパターン。今回は気を付けていたのですが。「私の風邪は喉から」(TVCMの真似)なので、喉の痛みが4日ほど続いて、急激に悪化はしないけれど、風邪っぽいのが1週間続く感じなのかなあ? 取材相手が親しい人だったおかげで、気にせずに鼻を頻繁にかんでいられるのが幸いです。ティッシュ、20枚ほど使ったところで…。

 

 教授「山本さん。それ、花粉症よ」、私「ええっ! そんなことないですよ、いつもこの時期に風邪を引いてしまうんです」、教授「…花粉症よ」、私「だって、喉だって痛かったのに」。でも、そういえば今朝(取材途中には出なかった)、「今回の咳は、なんで【ぶわっくしょん】っていう咳なんだろう?」と思ったのだけど、もしかして花粉症特有のくしゃみ? そう思ってティッシュをさりげなく気にしてみると、ああ、風邪と違って着色していない…。ショック。

 

 その後、周囲に話すと、「もう(スギの)花粉症なんてないよ。風邪だよ」という暖かい言葉と、「△さんもスギ以外の花粉症で、GWまで苦しんでいるんだって」というキビシイ情報の両方が錯綜しました。風邪、引いたつもりから5日。やっぱりだめかしらん。いえいえ、希望は最後まで失わないことが大切なのです…。

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