「若い世代へ伝えたい」という思い
「記者はあくまで第三者。取材で相手の意見に疑問を持ったとしても、意見を戦わせることはしない。反論の意味を含ませた質問をして、相手の主張が強い場合は受け流し、ほかの共感した部分だけを使ってインタビュー記事などに仕立てる」。記者の作法って、そういうものだと私は思っていました。40代初めまでは。そして報道記者のかなりの人が、年長者を含め「そう、これが記者の作法だ」と思っているのではないかと思います。
私の場合、この考えが変わり、〔人生の転機を自ら作り出す〕ことになったきっかけは、産学官連携の陰と陽に専門記者としてかかわることが増えたことにありました。利害がぶつかる産、学、官のそれぞれの立場の本音を耳にして、共感と反感が頻繁に入り交じるようになったのです。
当時、「産学官連携専門の新聞記者、という意味ではおそらく日本に一人しかいない。記事を通して社会に大きく貢献している」という自負が芽生えていました。けれども、産学官連携のきれいごとではない部分を放置しているのに後ろめたさも感じていました。そして、「産学官連携という新しくて重要な社会の動きに、他の人にはない知がある。理工系出身者としてばくぜんと憧れていた博士号が可能ではないか」という希望とともに、「単純な〔情報〕を左から右へ受け流すのではなく、現場を深く知る第三者の私だから可能な、課題解決に向けた提案と発信こそ、すべきではないか」という考えが動き始めました。2006年の秋のことでした。
簡単な取り組みではありませんから、およそ8大学8教員を訪問して研究計画を練ったうえで、07年10月に大学院へ社会人入学し、研究と記事で相乗効果を出す活動を開始しました。「大学発ベンチャーの経営系・技術系対立を解消する」という課題解決に向けた取材・執筆が中心です。単独連載を約2年、4部に分けて比較的、大きなスペースで連載し、関連のニュースも大量に獲得して記事にしてきました。なんといっても弊社の皆の理解あってこそできる活動ですから、「研究だなんていって、仕事に手を抜いているじゃないか」といわれないよう注意も払いました。
研究の材料は、記事に使った内容(分析とインタビュー)です。「これほど職業上の活動と相乗効果を出した、社会人の博士研究(技術系研究職は除く)はないでしょう」とある教員にいわれたほどです。社会人の場合、このような相乗効果の設計が大きなポイントになると感じています。3年半後、11年3月に博士号取得。その1年3カ月後に、関連テーマで今回の初著書刊行。実はこの書籍執筆の希望も、大学院入学前から持っていたもの(途中、どう形が変わってきたかは後日、記します)なのです。
職業人の日常生活は日々、小さな山あり谷ありです。ミスをしたり、方向転換を余儀なくされたり、批判を受けたりします。反省を胸に刻みつつ、気分転換をして元気を回復する。これの繰り返しです。
その一方で、初志貫徹に向けて、なにくそという気持ちで、全力を傾けてがんばるしかない時期というのも出てきます。博士研究と出版に取り組んだ時期は、まさにそうでした。何度か訪れるショックに対しても「こんなことは何でもないことだ。私はちっとも傷ついていない」と呪文のように唱え続けて、石にかじりついて粘らなければならないのです。自分にとっても、社会にとっても意味のある何かを成し遂げるには、熱意と誠実さ、そして〔粘り〕がどうしても必要です。
残念ながら、挑戦は成功するとは限らない非情さを持ち合わせています。勤務先支援型でない個人の活動で、博士号取得を断念する社会人は少なくありません。今回の出版も、5社に持ちかけてよい返事がもらえず、一度は棚上げにしています。30歳代には、子どもを持つことや、純文学の小説家になることで、何年も努力をしたうえで前向きに諦めています。自身の体調や、職場や家庭の状況、東日本大震災のような災害など、どうにもならないことも起きます。それでもなお、本当に大切だと思うことに取り組むことが、自身の人生の財産になってくるのだと思うのです。
今回の著書「研究費が増やせるメディア活用術」では、エピローグをはじめ随所にこのような思いをちりばめています。「職業人として一区切り、胸を張れるところまで来られた」という喜びを思うと、仕事を中心に私かかわってくれたすべての人に対して、感謝があふれてきます。そして、職業人としての存在感をこれから確立していくべき若い人に、何かしらを私から吸収してほしいという気持ちにつながるのです。本書はその意味で、力を発揮してくれるのではないかと思っています。人生にとって大切なことを、上の世代や周囲から受け取って、自らの個性で発展させてより豊かにし、それを若い世代に伝えていく-。それができる年齢と経験を重ねてこられたことに、改めて感謝をしたいと思います。
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